物語は、豊平川扇状地の扇端から
苗穂という地名は、アイヌ語の「ナイポ」(小さな川)に由来する。松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」(1859年)には、幕末の伏籠川の最上流にイチャンという地名がある。サケの産卵場の意味で、一帯にはサケの産卵床が方々にあったのだ。山田秀三の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』によれば、それらはおよそ、現在の苗穂小学校からサッポロビール博物館のあいだと考えられている。
さらに時代をさかのぼると18世紀まで、豊平川の流れはもっと西に寄り、いまの伏籠川の川筋を本流としていた。サケに代表される自然の幸に恵まれた石狩川下流域には13の場所(松前藩のアイヌとの交易拠点)があり、苗穂のエリアにもナイホウ場所があった。
そして19世紀初頭。太古から氾濫を繰り返しながらぶ厚く大きな扇状地を広げてきた豊平川は大氾濫を起こして流れを東に振り、中流域はほぼいまの川筋になる。西側に取り残されたかつての河道をアイヌの人々はフシコ・ペッ(古い・川)、フシコ・サッポロ(古い札幌川)などと呼び、明治になって、現在の伏籠川の字が当てられることになった。一帯には大量のサケが上り、水系を使って石狩との交通の便も良いので、古くから漁場への出稼ぎやシカやクマの猟を営むアイヌコタンがあったことが知られている。
「古い札幌川」となった伏籠川の源流は豊平川扇状地の扇端のメム(湧水)だ。現在の北1条東3、4丁目あたり。加えて、旧苗穂駅北側からも流れがあった。
1866(慶応2)年。箱館奉行の蝦夷地開拓策によって、二宮尊徳門下の幕臣大友亀太郎に率いられた和人たちが、伏籠川左岸への入植を開始した。のちの札幌元村だ。苗穂一帯は、この川の東側の枝流が複雑に流れる土地だった。いまでは面影もないが開拓初期の伏籠川は、石狩川から上った人や物資を札幌中心部に運ぶ重要な水路となっていく。札幌本府に向かう人々は、船で石狩川をのぼり茨戸に上陸して、伏籠川の川筋の獣道を南下した。
報徳仕法の一環で農業土木の技術に秀でた大友亀太郎は、この流れと豊平川の枝流を結んで、農業用水と湿地の排水、さらに水路の役割を担わせようと考えた。それが大友堀、創成川の原型だ。明治に入って開拓使は、堀を篠路(旧琴似川との合流点)をめざして北に伸ばし、豊平川の流れを入れる南へも拡張していく。これが道都の東西の都市軸を担う「創成川」と名づけられたのは、1874(明治7)年のこと。明治半ばには北の茨戸まで達して、石狩川河口から札幌中心部までが水路で結ばれたのだった。石狩街道の原型は、このときに掘り出された土砂を盛り固めたものだ。
伏籠川右岸、現在の苗穂地区に和人の入植がはじまったのは、1870(明治3)年。主役は酒田県(現在の山形県)からの移民たちだった。市街地の区割りや本府の建設に着手していた、旧佐賀藩士である開拓使首席判官島義勇は、戊辰戦争に敗れて困窮している庄内地方(当時酒田県)などに官員を派遣して、本府周辺に農村を配していくために農業移民の募集を進める。譜代大名の名門で江戸の市中警備も担っていた庄内藩の戦後は、旧薩長勢力の勝ち組から理不尽な汚名を着せられ、混乱を極めていた。その中から北海道への移住を決断する者も少なくなかった。
最初の移民36戸120人が酒田港を出発して目的地に着いたのは、1870(明治3)年の春。一行のリーダーは福井出身の組頭、坂野元右衛門だ。すでに坂野は、越前の大野藩が幕末に野田生(現・八雲町)の開拓に取り組んだときに蝦夷の地を踏んでいた。さらに慶応年間(1865|68)には、日本海沿いの浜益(現・石狩市)で北方警備を担った庄内藩の士族や農民らと共に開墾に従事している。戊辰戦争の混迷で庄内藩は引き揚げたが、酒田でまた北海道開拓に参画する機会を得て、坂野は勇躍北海道をめざしたのだった。
一方で開拓使首席判官の島義勇は、強引な施策で上司らの怒りを買い、わずか半年で罷免されてしまった。そのため島が進めていた移民受け入れの仕組みもストップしていて、札幌に入った酒田衆は途方に暮れてしまう。開拓使に赴いてこの事態を打破したのが坂野だった。一行は伏籠川が太古から形づくった肥沃な土地への入植を許され、「募移農民」としての扶助を受けながらいよいよ開墾に取り組む。
坂野らに続いて第二船でやってきた酒田衆も、役場との交渉に難儀しながら、現在の丘珠の地に入った。第三陣が入ったのが現在の円山で、酒田県人や福井衆が草分けとなったこの3つの村は、この年が庚午(かのえうま)であったことから、庚午一ノ村(苗穂村)、庚午二ノ村(丘珠・30戸90人)、庚午三ノ村(円山・30戸90人)と呼ばれた。
また、大友亀太郎が開いた御手作場の北にもこの年に新潟県民が入植したが、こちらは札幌新村と呼ばれ、それに対して御手作場の地域は札幌元村と呼ばれるようになる。
島が構想した、札幌本府のまわりに配する農村群はその後、宮城県人による雁来村、新潟県人による山鼻村、胆沢県民(現・宮城県北部と岩手県南部)による平岸村、盛岡県人による月寒村などがつづいた。
入植者たちは死に物狂いで原生林を拓き、まず草葺きの掘っ立て小屋を建てた。ソバが蒔かれ、続いて大豆や小豆などが栽培される。しかし四方は原生林。ようやく実った作物を狙ってシカやクマが出没する。さらに移民たちには、想像を絶する北海道の冬が襲いかかった。
1872(明治5)年に「北海道土地賣貸規則」が公布され、開墾した土地の私有権が得られるようになった。そして開拓使からの扶助の期限も3年で切れると、拓いた土地を売って故郷に帰る者や、市街やニシン場など、確実な現金収入の望めるところへ出て行く者が現れた。また逆に、すでに拓かれた土地を求めて入ってくる農民もいて、住民の流動化も起きてくる。1926(大正15)年の調査では、最初の移民船に乗って苗穂と丘珠に入った計66戸のうち、在住していたのは福井からの4戸、酒田県の5戸のみ。陸前から雁来に入った家族は全員転出していたという。丘珠には札幌市無形文化財第一号に指定(1974年)された獅子舞があるが、これは、酒田ではなく富山県福野町安居がルーツだ。
開拓のエンジンとなった器械場
1871(明治4)年に開拓使顧問として招かれたホーレス・ケプロン(前・米国農務局長)は、部下のウィリアム・ブレーク(地質学者)やA·G·ワーフィールド(土木エンジニア)らが行った調査をもとに、報文を提出した。そこでは、北海道ならではの新たな産業振興策がうたわれている。中でも創成川以東に関わる項目として特記されているのが、開拓のための各種資材を生産する官営機械工場の設置だった。豊平川を軸に、道都札幌は水力に恵まれているので、これを動力として機械工場群を作り出す。ケプロンは、開拓に資するモノづくりの機械化こそが国の開化の基であると主張した。
その核となった施設が、いくつもの工場を総合的に配置した開拓使工業局器械場だった。現場を率いたのは、開拓使お雇い外国人のN·W·ホルト。1875(明治8)年に北海道最初の洋式橋となる豊平橋を設計したエンジニアだ(橋はほどなく洪水に流された)。
器械場の東西の敷地は、現在の大通公園の東端の先、東1丁目から4丁目あたりまで。南北は、最長部で南1条から北6条まで広がり、中心には、豊平川上流域から流送してくる原木を入れるふたつの貯木場(木材囲堀)があった。ちょうど当時の伏籠川の源流域だから、一帯には豊かな湧水もあったことだろう。
そのまわりには、洋式鋸を据えつけた蒸気木挽器械所や、水車機械所。さらに鋳造所や錬鉄所、木工所、製粉器械所、製鉄器械所などがつぎつぎに建てられていく。創成川から引いた水流を動力にして、丸鋸や縦鋸、柾挽き器械がうなりを上げた。
住友家の初代総理事をつとめた広瀬宰平は1881(明治14)年の北海道視察で器械場を訪れ、内地にはこんな先進的な工場はない、と驚愕している(「東北紀行」)。別子銅山(愛媛県)の近代鉱業化を率いた広瀬にとって、米国の先進技術があふれるように並んでフル稼動しているこの実験的な現場は、さぞや近未来的な世界に映っただろう。
ここでは、道都建設に不可欠な膨大な角材や屋根の柾材といった建築資材をはじめ、農具や船具などの道具器械、荷車や橇、ニシン釜、度量衡具(物差しや升や秤)といった、これからの開拓と産業振興に欠かせないものの製造や修繕が行われていく。器械場の北には勧業製糸所、開拓使麦酒醸造所・同葡萄酒醸造所などが連なっていた。
現在のサッポロビールの源流となった開拓使麦酒醸造所(北2東4・現サッポロファクトリー)の創業は、1876(明治9)年。翌年には日本ではじめてホップの本格的栽培がスタートする。北2条から北4条までの西4丁目付近にホップ園が作られた。
この開拓使の時代には、のちに北海道神宮頓宮となる札幌神社遥拝所がすでに建立されている。
巨大な赤れんがの煙突を持つ麦酒醸造所の第二工場(北7東9)が、麦芽を作る製麦工場として創業したのは、開拓使の時代が終わり北海道庁が発足して20年近くを経た、1905(明治38)年。この工場は、1890(明治23)年創業の札幌製糖会社の甜菜処理場が前身だった。一帯には開拓使がお雇い外国人の指導のもとに積極的に進めた西洋野菜・果樹による洋式農法の圃場が広がり、それらを原料とする官営工場とあいまって、内地とは大きく異なる北方の景観を形づくっていた。
開拓時代の北海道では、「西洋文明の飾り窓」の側面を持つキリスト教の布教活動が盛んに繰り広げられたが、創成川東の界隈には、1898(明治31)年に建てられた、カトリック北一条教会旧聖堂と、1916(大正5)年竣工の現聖堂がある(北1東6)。もともと葡萄酒醸造所に納めるブドウ園だったこの土地が教会の所有になったのは、1891(明治24)年。開拓使から実業家桂二郎に払い下げられた葡萄酒醸造所が、札幌の谷七太郎に売却された年だ。桂家にゆかりのある信者が、土地の所有者とのあいだをつないだという。
また創成川に面した西の境界域(北1東1)にも伝統を誇る教会がある。こちらはプロテスタントで、1904(明治37)年に献堂された日本基督教団札幌教会礼拝堂だ。
北海道の風土が好適であることから幕末に大友亀太郎も亜麻栽培に取り組んだが、日本最初期の機械紡績として北海道製麻(北7東1)の生産が始まったのは、1890(明治23)年。天幕や兵器覆、航空機の翼覆など、国策としての軍事物資への国産需要が高まっていた。広大な敷地に、仏蘭西式設計の赤レンガ工場が新開地の風景を一変させた。北陸などから集められた女工による過酷な昼夜2交替制労働。そのために電燈が北海道ではじめて灯ったのもこの工場だった。
今日まで地域の代表的な営みであり続けている鉄道工場の誕生は、1909(明治42)年。伏籠川の複雑な流れに囲まれた土地に、それまであった札幌の事業家谷七太郎の葡萄園を含む約490haの広大な敷地を確保して、手宮や岩見沢などに点在していた施設を統合した、鉄道院北海道鉄道管理局札幌工場だ。すでに大正のはじめには従業員は千人を超え、機関車組立場や旋盤場など、40にも及ぶ工場群が並ぶことになる。1920(大正9)年には鉄道院から鉄道省へと組織替えとなったが、鉄道省六大工場のひとつに位置づけられ、北海道を代表する機械工場となっていた。
幕末の遺構はといえば、明治期後半になると大友亀太郎が掘った大友堀は役割を終え、市街では汚水が入って汚泥がたまるようになり、この時代には埋め立てがはじまっていた。
札幌のモノづくりを担う時代
大正期に入ると古谷製菓が製餡工場を建設(北6東11)。「○(カネマル)キャンデーをヒットさせた。1928(昭和3)年にはイギリス製の自動包装機を導入。製菓業を進化させ、ロングセラーとなるウィンターキャラメルを大ヒットさせたのは1931(昭和6)年だった。味噌・醤油の福山醸造は、1918(大正7)年に第二工場を建設(苗穂町2)して、北4条西1丁目から苗穂の地へ移転した。
豊かな水脈をもつ苗穂エリアでは、ビールや日本酒、味噌・醤油など、水にちなむ食品産業群の発展も特筆される。現在の日本清酒の源流となる柴田酒造店が、同業社を束ねて札幌酒造合名会社を設立したのは1897(明治30)年のことだった(南3東5。さらに合同発展した日本清酒株式会社の創立は1928年)。
札幌電気軌道の電車が東へ延伸されたのも大正半ばで、道庁本庁舎(北3西6)を基点として、かつて札幌農学校や官営麦酒醸造所、札幌病院などが並んでいた北3条通を進むことになる。道庁本庁舎をアイストップに据えた北3条通は、開拓使通とも呼ばれた、道都の重要な都市軸だ。電車の路線は、1919(大正8)年には北3条東7丁目まで、22(大正11)年には苗穂駅まで延長されている。電車が乗り入れたことで苗穂駅から東橋エリアの発展が一気に進むことになった(当時の東橋は現在よりも2丁西)。電車事業は1927(昭和2)年に市営化されることになる。
のちに雪印乳業となる北海道製酪販売組合は、1925(大正14)年創業(苗穂町6)。1941(昭和16)年には、戦時の企業統制によって道内の他社を合併して北海道興農公社が設立された。
1933(昭和8)年。札幌市は都市計画地域を策定。創成川以東の苗穂地区一帯を工業地に指定した。これによって職住一帯型の小工場もしだいに軒を並べ、鉄工関係の機材部品販売、古銅鉄廃品回収業なども集まる。鉄工機械やビール、セメント類の出荷などで、この時代の苗穂駅の貨物取扱は札幌駅を大きく上回っている(『札幌市史』では、1938年札幌駅4万4554トンに対して苗穂駅20万3948トン)。
このゾーニングは1942(昭和17)年に一部改正されて、東8丁目までの工業地指定が外された。そのために8丁目以東にますます大小の工業関連企業が集積していくのだった。経営者の住まいの階下が工場という会社も多く、界隈には庶民的な暮らしの営みが繰り広げられていく。
戦後になって、苗穂と豊平川対岸の白石村を結ぶ東橋が鋼鉄の橋脚を備えて現在の東14丁目へと掛け替えられる(1951年)。それに合わせて、苗穂駅・東橋間の道路が拡幅された。昭和30年代は、苗穂の工業地帯が近代化を迎える時代だ。北3条の電車通りは昭和32年に舗装化された。5千円札が発行されたこの年、市電苗穂駅停が50m東へ延長。東橋までの道路拡幅計画の仕上げとなり、札幌の東玄関、苗穂駅前の佇まいが完成を見た。1959(昭和34)年には、現・本町1条9丁目に宝酒造株式会社の工場が進出している(2003年廃止)。
時代に取り残される苗穂
1960(昭和35)年に札幌市の人口は50万人を超えた。そしてわずか10年後の1970(昭和45)年には101万人を突破。全国8番目の百万都市となる。札幌オリンピックが開かれた72年には、政令指定都市となった。五輪を挟んでこの間の札幌中心部は、地下街の建設や市電廃止と地下鉄の登場、道路の拡幅やビルの新築ラッシュがつづき、北方圏の国際都市の土台と風貌を整えていく。80年代後半は、のちにバブルとも呼ばれた投機的な好況が列島をおおい、札幌にもさまざまな投資が展開された。明治期には全国が目を見はるハイテク工業センターだった創成川の東は、しかしその流れに取り残されていく。札幌市は、丘珠や発寒、手稲、厚別などの郊外で工業団地の造成を進めたので、モノづくりや物流といった産業機能の発展も完全に止まったし、職住一帯の町工場が去っていくと、人口減少がはじまる。とくに夜間人口が減ることで都市機能が低下し、90年代以降の創成川東には、治安への懸念さえイメージとして広がることになった。
豊平川対岸の白石村が札幌市に編入されるのは1950(昭和25)年。苗穂駅北側の札幌村(現・東区の大部分)が札幌市となったのは、1955(昭和30)年のこと。つまり創成川と豊平川で東西を区切られたこの地は、都心部に隣接していながら、長く札幌の南東端でありつづけたのだった。とりわけ豊平川沿いは、都心の豊かさから排除された人々が吹き寄せられるように集まる細民の土地ともなり、だからこそ、新渡戸稲造らが学校に通えない人々のために立ち上げた遠友夜学校(1894|1944年)もこの地に誕生する(南4東4)。
都市が成長して拡大する過程では、都心外周で空洞化が進み、住宅環境が悪化する。そしてほどなく人口の流出がはじまる。都心の境界におけるこうした現象は、インナーシティ問題として世界各地の都市が共有する課題だった。一方で苗穂の地は、庚午一ノ村として札幌本府建設と同時に入植者を迎えた土地であり、その歴史を十分に意識する古くからの住民たちにとっては、こうした状況は屈辱と無念以外のものではなかった。
創成川の東で新たな動きが起こったのは、1985(昭和60)年。第2代北海道庁長官で屯田兵司令官を歴任した永山武四郎の旧邸宅(北2東6)が札幌市の所有となり、周辺と合わせて公園整備が計画される。そして国鉄分割民営化でJR北海道が発足(1987年)。苗穂工場内に、歴史を継承する北海道鉄道技術館が開館した。1988(昭和63)年には苗穂アンダーパスが開通したが、同じ年に琴似駅と札幌駅のあいだでは高架化工事(9・5㎞)が完成して、19の踏切が解消されていた。地元では高架を苗穂まで、という願いが強かったが、JR北海道の鉄道工場の存在がネックになる。苗穂の顔でありながら、その広大な敷地がエリアを分断していることを、人々はあらためて痛感した。苗穂には空き地も生まれ、住民の高齢化も進む。閉塞と焦燥の感が地域をおおっていった。
札幌の中心市街地に隣接して、西洋果樹・野菜の圃場、そして先進のモノづくりのまちとして歩んできた苗穂の地には、新たなまちづくりの胎動が待ち望まれていた。
参考文献
『札幌市史』(札幌市)
『東区拓殖史』(札幌市)
『東区今昔』(札幌市)
『札幌のアイヌ地名を尋ねて』(山田秀三) ほか
年表・創成イーストの歩み
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- 1801年ころ
- 豊平川に巨大な洪水が起こり、それまで津石狩(ツイシカリ)川と呼ばれていた流れへ本流路が大きく変わる。
これがほぼ現在の豊平川へ。小さく残った元の本流は現在の伏籠川となる。 - 1858(安政5)
- 箱館奉行石狩役所の荒井金助が農夫を率いて荒井村(のちの篠路村)が拓かれる。
翌年琴似在住の早山清太郎も同地に入植。稲作に挑む。これが篠路の開基。
早山の勧めで士族の中島彦左衛門も農夫を入れ、荒井村の南に中島村を拓く。 - 1866(慶応2)
- 二宮尊徳門下の幕臣大友亀太郎が、箱館奉行の施策で元村に御手作場を開設(のちの札幌村)。
村の鎮守として妙見堂が建てられる(のちの本龍寺)。 - 1870(明治3)
- 大友亀太郎離道。酒田県などからの移民90余戸が札幌一帯に入植。のちの苗穂、丘珠、円山を拓く。
現・苗穂は庚午一ノ村、丘珠は同二ノ村、円山は同三ノ村と称される。
大友堀を南に延長(吉田堀)。柏崎県(現・新潟県の一部)の移民が庚午四ノ村に入植(札幌新村)。 - 1871(明治4)
- 庚午一ノ村が苗穂村、庚午二ノ村が丘珠村と改称。
札幌村と札幌新村が合併し札幌村となる。雁来に入植者(のちの雁来村)。 - 1872(明治5)
- 苗穂村に苗穂墓地を設置。
丘珠神社の基となる祠が建てられる(1882年丘珠神社と号す)。 - 1873(明治6)
- 苗穂村に教育所発足(のちの札幌小学校)。
篠路村の早山清太郎によって、獣道程度だった石狩川(茨戸)と札幌村を結ぶ陸路が開削される(茨戸札幌線、現・道々273号)。 - 1875(明治8)
- 苗穂開拓のリーダー坂野元右衛門宅に苗穂教育所開校。
- 1876(明治9)
- 開拓使麦酒醸造所、開拓使葡萄酒醸造所創業。
- 1877(明治10)
- 葡萄酒醸造所の周囲に1〜4号の葡萄園を造成。
本格的なブドウ栽培が始まる。 - 1878(明治11)
- 札幌神社遥拝所(現・北海道神宮頓宮)が建立される(南2東3)。
- 1879(明治12)
- 札幌村、苗穂村、丘珠村、雁来村、篠路村を合わせて戸長役場が置かれる。
郡区町村編成法により、札幌市街地が札幌区となる。 - 1880(明治13)
- 苗穂村に札幌監獄本署設置(現・札幌刑務所)。
官営幌内鉄道・手宮〜札幌間の営業開始。 - 1886(明治19)
- 北海道庁発足に伴い官営工場の払下げが始まる。
開拓使麦酒醸造所は大倉喜八郎(大倉組)、葡萄酒醸造所は桂二郎(桂太郎首相の実弟)へ。苗穂墓地移転。 - 1887(明治20)
- 北海道製麻創建(北7東1、23年工場創業)。
- 1888(明治21)
- 永山武四郎、第2代北海道庁長官に就任。
- 1889(明治22)
- 札幌農学校付属第三農場が開かれる(札幌村・創成川沿)。
永山武四郎道庁長官、屯田兵司令官を兼務。 - 1890(明治23)
- 札幌製糖株式会社の精糖工場創業(現・サッポロビール博物館)。
最初の東橋完成(現橋よりも150m上流)。白石方面と直結したことで苗穂地区が札幌区の東の玄関口となる。 - 1891(明治24)
- 桂二郎、葡萄酒醸造所を谷七太郎へ売却。
北海道葡萄酒醸造所創業。 - 1897(明治30)
- 苗穂神社創建。
柴田酒造店が同業者を束ねて札幌酒造合名会社を設立(南3東5)。 - 1899(明治32)
- 札幌村神社創建。
篠路村が戸長役場から独立。 - 1902(明治35)
- 北海道二級町村制が改正。
元村、苗穂村、丘珠村、雁来村を合わせていた戸長役場が札幌村に統合される(のちの東区の母体)。苗穂村、丘珠村、雁来村が札幌村の大字となる。 - 1903(明治36)
- 旧・札幌製糖精糖工場が札幌麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)の精麦工場となる。
- 1905(明治38)
- 旧・開拓使札幌機器製造所が札幌工作株式会社へ再編(北4東4)。
- 1907(明治40)
- 札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改編。
北海道製麻会社と日本製麻会社が合併、帝国製麻会社創立。 - 1908(明治41)
- 札幌村字苗穂尋常小学校と札幌村字藤古尋常小学校を併合し、札幌村第一尋常小学校開校(現・札幌小学校)。
陸軍糧秣本廠札幌派出所設置(現・陸上自衛隊苗穂分屯地)。 - 1909(明治42)
- 鉄道院北海道鉄道管理局札幌工場創業(1915年に苗穂工場に改称)。
伊藤苗穂木工所創業。 - 1910(明治43)
- 国鉄函館本線苗穂停車場(のちの苗穂駅)開業。
北海道授産場(更生保護施設)設置。札幌区の区域拡張。札幌村、苗穂村の一部が札幌区に編入。 - 1911(明治44)
- 札北馬車軌道株式会社が札幌・茨戸間に馬車鉄道を開業。
北海道瓦斯(株)創業(仮事務所北3西1)。 - 1912(大正元)
- 北海道瓦斯(株)札幌工場竣工(北4東4)。
ガス供給開始。 - 1913(大正2)
- 北海道授産場が苗穂村御料地に移転。
北海道葡萄酒醸造所廃業。 - 1914(大正3)
- 苗穂村に北海道煉乳(株)設立。
- 1917(大正6)
- 古谷製菓が製餡工場創業(北6東11)。
- 1918(大正7)
- ヤマト福山商店(のちの福山醸造)が苗穂工場を新設(苗穂町37)。
- 1919(大正8)
- 東北尋常小学校(北4条東3丁目)より約300名の児童を収容して苗穂尋常小学校開校(北7条東12丁目)。
札幌電気軌道苗穂線(北3西4〜東7)開業。 - 1920(大正9)
- 札幌鉄道局苗穂工場が鉄道院から鉄道省に組織替え。
- 1922(大正11)
- 札幌電気軌道苗穂線延長(東7丁目-苗穂駅)。札幌区に市制施行。
住民組織「苗穂中央俱楽部」発足。 - 1923(大正12)
- 札幌工作株式会社廃業。
札幌鉄道局苗穂工場、鉄道と工業知識の普及のために工場内の一部公開を開始。 - 1924(大正13)
- 札幌村に一級町村制施行。
親睦・娯楽組織「苗穂町協和会」発足。 - 1925(大正14)
- 北海道製酪販売組合 (のちの雪印乳業)創立。
苗穂公設市場開場(北2東11)。 - 1926(大正15)
- 北海道鉄道株式会社札幌線(沼ノ端〜苗穂)営業開始(のちの国鉄千歳線)。
北海道製酪販売組合が北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改組。商標が「雪印」に。 - 1927(昭和2)
- 札幌市が札幌電気軌道を買収。
電車事業が市営となる。 - 1928(昭和3)
- 民間による児童福祉施設、苗穂保育園開園(北2東10)。
札幌酒造を基に9社が合同して日本清酒株式会社創立。
「千歳鶴」銘柄誕生。 - 1929(昭和4)
- 苗穂振興会発足。
- 1931(昭和6)
- 北海道鉄道札幌線、東札幌〜苗穂間3.1kmが電化。苗穂駅への電車乗り入れ始まり、定山渓鉄道も乗り入れる(定山渓鉄道・東札幌〜定山渓間の電化完成は1929年)。
- 1932(昭和7)
- このころから苗穂駅の貨物取扱量が札幌駅を上回る。
- 1933(昭和8)
- 札幌市が最初の用途地域指定。創成川以東の苗穂地区一帯が工業地域に指定される。
豊平川新水路工事始まる(洪水対策のために石狩川との合流点を下流に移動拡幅)。 - 1934(昭和9)
- 札幌市電苗穂線全線複線化。苗穂〜手宮間(札幌・小樽)に省営バス(のちの国鉄バス)運行開始(北海道初の省営バス)。
伊藤組が新工場(北4東8)を伊藤組鉄工部に改組。北海道唯一のボイラーメ-カーとなる。 - 1935(昭和10)
- 苗穂駅2代目駅舎開業。
札沼線全線開業(桑園〜新十津川)。 - 1937(昭和12)
- 陸軍糧秣本廠札幌派出所が、同札幌出張所に改編。
大字を廃して元村・苗穂・丘珠・雁来を字とする。 - 1938(昭和13)
- 札幌鉄道局苗穂工場でD51型蒸気機関車の製造を開始。
工成舎が製缶、機械組立工場を創業(北11東8)。 - 1940(昭和15)
- 戦時体制下、札幌鉄道局苗穂工場は2千人を超える職工を抱え市内最大の工場となる。
陸軍糧秣本廠札幌出張所が、同札幌支廠に。 - 1941(昭和16)
- 企業統制により北海道製酪販売組合が株式会社北海道興農公社に改組。
円山町が札幌市と合併。
豊平川新水路工事竣工。豊平川下流部が現在の河道となる。 - 1942(昭和17)
- 苗穂地区の工業地指定が一部改正。
創成川から東8丁目までの指定が外される。
北海道鉄道会社の札幌線(沼ノ端〜苗穂)が鉄道省に買収され国鉄千歳線となる。 - 1944(昭和19)
- 札幌丘珠飛行場開場。
- 1945(昭和20)
- 日本が降伏文書に調印。
アジア太平洋戦争終結。 - 1948(昭和23)
- 札幌村農業協同組合設立。
- 1949(昭和24)
- 札幌村の農地解放終了。
- 1950(昭和25)
- 白石村が札幌市と合併。
- 1951(昭和26)
- 現在(北1東14)の東橋(上り線)が完成(片側一車線)。
旧・陸軍糧秣支廠が警察予備隊札幌駐屯地となる(苗穂町7)。 - 1954(昭和29)
- 苗穂駅・東橋間の道路が拡幅。
陸上自衛隊発足により、警察予備隊札幌駐屯地が陸上自衛隊北海道地区補給処に改称(現・陸上自衛隊北海道補給処苗穂支処)。 - 1955(昭和30)
- 札幌村が琴似町、篠路村とともに札幌市と合併(札幌市の人口48万7千人あまり)。
- 1957(昭和32)
- 電車通り舗装化。市電苗穂駅停が50m東へ移動。東橋までの道路の拡幅完了。
札幌の東玄関としての苗穂駅前が完成。 - 1958(昭和33)
- 4代目札幌駅開業に伴い、札幌駅での貨物取扱が終了。
その分を苗穂駅が担うことに。 - 1959(昭和34)
- 宝酒造株式会社の札幌工場が操業開始(現・本町1条9丁目)。
- 1961(昭和36)
- 大日本印刷(株)札幌営業所を開設(北7東12)。
- 1962(昭和37)
- 発寒工業団地(西区)造成スタート。
- 1963(昭和38)
- 帝国繊維札幌工場閉場。
- 1966(昭和41)
- 開拓使麦酒記念館(現・サッポロビール博物館)とサッポロビール園開業。
- 1968(昭和43)
- 伏籠川終末処理場本運転開始。
- 1969(昭和44)
- 東橋下り線(下流側)が完成。東橋が4車線化。
定山渓鉄道、鉄道部門廃止。 - 1970(昭和45)
- 国勢調査で札幌市の人口が100万人突破(1,010,016人)
- 1971(昭和46)
- 札幌市電苗穂線廃止(豊平線、北5条線共)。
- 1972(昭和47)
- 札幌オリンピック開催。
札幌市政令指定都市移行で区制施行。
鉄道の北側が東区、南が中央区に。 - 1977(昭和52)
- 雪印乳業資料館(現・酪農と乳の歴史館)開館(苗穂町6)。
- 1978(昭和53)
- 伏古川通歩行者自転車専用道開通。
- 1979(昭和54)
- 豊平川でサケの稚魚の放流が約30年ぶりに再開(カムバックサーモン運動)。
古谷製菓が倒産。 - 1981(昭和56)
- カムバックサーモン運動で放流されたサケが産卵のために戻りはじめる。
- 1982(昭和57)
- モエレ沼公園建設工事着工。
- 1983(昭和58)
- 札幌市の人口が京都を抜いて全国5位に(1,483,000人余)。
- 1985(昭和60)
- 永山武四郎邸(北2東6)が札幌市の所有となり一般公開開始。
この年以降、豊平川でサケの自然産卵が確認されるようになる。 - 1986(昭和61)
- 苗穂中央地区再開発工事着工。
旧永山邸周辺地区第一種市街地再開発事業着工(1988年竣工)。 - 1987(昭和62)
- 国鉄分割民営化で北海道旅客鉄道(JR北海道)発足。
苗穂工場内に北海道鉄道技術館開館。 - 1988(昭和63)
- 苗穂駅前広場オープン。JR函館本線に苗穂アンダーパス開通。
JR北海道「琴似駅・札幌駅間高架事業」竣工(19の踏切が解消され9.5kmが高架に)。
札幌市営地下鉄東豊線開業(栄町駅〜東豊すすきの駅)。 - 1989(平成元)
- サッポロビール札幌第一工場の生産終了。
- 1990(平成2)
- JR苗穂駅北側地域住民団体(東区住民)が、苗穂駅北口開設要望書を札幌市に提出。
- 1991(平成3)
- 札幌圏でスパイクタイヤ規制法施行。
苗穂中央第3東地区第一種市街地再開発事業着工(北1東10、1997年竣工)。 - 1993(平成5)
- サッポロ・ファクトリー開業。
「JR苗穂駅北側地区再開発協議会」発足(東区苗穂連合町内会・商店街・地元企業など)。
JR北海道苗穂工場の移転とその跡地利用として「ボールパーク」の整備構想なども発案される。 - 1994(平成6)
- JR苗穂駅北側地区再開発協議会、再開発基本計画の骨子を市長あてに提出。
札幌市営地下鉄東豊線、福住駅まで延伸開業。 - 1995(平成7)
- 「フォーラム・苗穂再開発物語」第1回開催(札幌サンプラザ)
※以後13回開催。札幌厚生病院が現在地に新築移転(北3東8)。 - 1996(平成8)
- 「JR苗穂駅南地区再開発協議会」発足(南側中央区住民)。
- 1997(平成9)
- 札幌市が「苗穂駅周辺地区整備基本構想」を策定。
- 1998(平成10)
- 苗穂駅再開発の北側・南側を連携する「苗穂駅周辺まちづくり連絡協議会」発足。
- 1999(平成11)
- 第1回「苗穂まちづくりワークショップ」開催(以降相当数開催)。
苗穂駅前と菊水上町を結ぶ「平和大橋」工事着工(名称にちなむ平和通は苗穂駅起点で北広島市西の里を終点とする市道)。札沼線、新川駅・新琴似駅間高架事業」竣工。 - 2000(平成12)
- 「JR苗穂駅北側地区再開発協議会」、「苗穂二十一世紀まちづくり構想」を市長あてに提出。
「なえぼ探検バスツアー」実施。 - 2001(平成13)
- 南北の再開発協議会合併。
「苗穂駅周辺まちづくり協議会」発足(28町内会)。同会が「なえぼ散策マップ」制作。
掲示板「はばたく苗穂」発行開始。札幌市が「都心のまちづくりビジョン」発表。
札幌の歴史的成り立ちを留める北三条通(北大植物園-JR苗穂駅)を「うけつぎの軸」と位置づける。 - 2002(平成14)
- 札幌市と協議会が共同で「JR苗穂駅周辺地区まちづくりガイドライン」策定。
「北4東6周辺地区」が都市再生緊急整備地域に指定。 - 2003(平成15)
- JRタワー開業。
単位町内会ごとに計27カ所に「はばたく苗穂」掲示板ニュースを設置。
サッポロビール札幌工場生産終了。サッポロビール園の一角に北海道日本ハムファイターズ練習場設置。 - 2004(平成16)
- 苗穂駅移転に関する全戸アンケートを実施。
「札幌苗穂地区の工場・記念館群」が北海道遺産に。
「苗穂駅周辺まちづくり協議会」が「路面電車検討委員会」を設置。「平和大橋」完成。平和通が都心に直結される(豊平川に架かる37番目の橋)。 - 2005(平成17)
- サッポロビール工場跡地に「アリオ札幌」開業。
苗穂駅前に「蔵の湯」開業。
北海道ガス(株)札幌工場(北4東6)操業停止。モエレ沼公園グランドオープン。 - 2006(平成18)
- 札幌市「苗穂駅周辺地区まちづくり計画」策定(協議会・地権者が協力)。
「北4東6周辺地区再開発促進協議会」発足。協議会が「苗穂産業遺産マップ」発行。このころから「創成イースト」、「創成川イースト」の呼称が広がる。 - 2007(平成19)
- 苗穂駅南地区再開発準備組合設立(地元地権者)。
第1回びっくり野菜市開催(以降毎年開催)。 - 2008(平成20)
- 「第一回苗穂サミット」開催(苗穂会館)。
秋にリーマンショック。内外の経済が沈滞。 - 2010(平成22)
- 協議会が苗穂地区への市電延伸の要望書を署名とともに札幌市長に提出。
- 2011(平成23)
- 札幌市が北3東11周辺地区・北4東6周辺地区の「再開発基本計画」策定。両地区の準備組合設立。
- 2012(平成24)
- 札幌市、苗穂地区再開発事業基本設計をスタート。苗穂駅の西側移転・橋上化、自由通路、ネットワーク道路などを都市計画決定。
地域交流の場「苗穂カフェ」オープン(北2東11)。 - 2013(平成25)
- 「苗穂駅周辺まちづくり協議会」が「まちづくり功労者国土交通大臣表彰」を受賞。
「北4東6周辺地区再開発準備組合」設立。 - 2015(平成27)
- 北3東11周辺地区・北4東6周辺地区の市街地再開発事業を都市計画決定。
新・苗穂駅移転に合わせて駅北側のJR北海道所有地2haで、(株)大京と住友不動産(株)による再開発スタート。 - 2016(平成28)
- 「北4東6周辺地区市街地再開発組合」設立。
札幌市「第2次札幌市都心まちづくり計画」策定。苗穂駅移転橋上駅舎化に伴う配線等移設工事着工。 - 2017(平成29)
- 北海道ガス(株)の旧本社・札幌工場跡地で「北4東6周辺地区再開発事業」着工。
- 2018(平成30)
- 旧・永山邸・三菱鉱業寮リニューアルオープン。
北3東11周辺地区市街地再開発組合設立。新・苗穂駅開業。 - 2019(平成31)
- 北4東6周辺地区第一工区・新「札幌市中央体育館(北ガスアリーナ札幌46)」開館、エネルギーセンター竣工。
サッポロファクトリー・北ガスアリーナ間の空中歩廊供用開始。
旧・苗穂駅解体。北4東6周辺地区「ザ・タワーズフロンティア札幌」竣工。 - 2021(令和3)
- 苗穂駅、南北の駅前広場全面供用開始。
苗穂駅北口とアリオ札幌を結ぶ空中歩廊完成。
北4東6周辺地区・第二工区竣工。「北3東11周辺地区第一種市街地再開発事業」のA・B街区名称を「苗穂ヒラクス」に。