歴史に根ざした新たなまちづくりへ

地域再生の始動 1990-2002

まちづくり運動の事始め

1990年。苗穂駅北側の住民団体が、苗穂駅に北口を開いてほしいという要望書を札幌市に提出した。
道都の中心、札幌駅から東にわずかひと駅の2キロ圏内にもかかわらず、一帯の土地利用の転換が進まないのは、鉄路と鉄道工場がまちを分断して、南北の動線が閉じられているからだ。札幌駅から西にひと駅の桑園地区では、鉄道の高架化が実現して分断が解消されたことで、新しいまちづくりが始まっていた。せめて鉄道の北側から苗穂駅まで自由通路を結べないだろうか︱。この素朴な思いが、苗穂地区の再生運動を動かしていくことになる。
要望を受けた札幌市の責任者からは、前向きのアドバイスがあった。稼働している苗穂工場の上空に長大な歩行者通路を整備するのは難しいが、地域の課題や未来への思いは行政も同じ認識なので、まちの将来像を構想する活動を進めてはどうか、というもの。住民と行政が協力して、企業も巻き込むことが求められる。これを受けて住民団体は、地元住民と企業、行政が幅広く参加する協議会の設立に向けて動き出した。 1993年の秋。東区苗穂連合町内会や商店街、地元企業などが力を合わせて、「JR苗穂駅北側地区再開発協議会」が発足する。行政まかせ、他力本願ではなく、「地域が主体となった住民・企業・行政のパートナーシップによるまちづくり」を基本理念とする運動がスタートした。
おりしもこの年の春、サッポロビール第一工場跡地に、全天候型のアトリウムを中心にショッピングモール、アミューズメント施設、レストラン、フィットネスクラブ、ホテルなどを配した複合商業施設、「サッポロファクトリー」が開業している。創成川の東エリアに久しく見られなかった注目が市の内外から集まり、かつて開拓使通とも呼ばれた北3条通を軸にした再開発の可能性を実感した地元の人々の期待も大きかった。苗穂地区の再生運動の立ち上がりと、土地の歴史文化を積極的に活用していくサッポロファクトリーの開業は、その後の運動の原動力となっていく。

1876(明治9)年に開業した開拓使麦酒醸造所は、払い下げや譲渡、合同といった経緯をたどり、1964(昭和39)年に社名を日本麦酒株式会社から「サッポロビール株式会社」と改称した。創業の地を第一工場として100年以上の歴史を刻んできたが、1993(平成5)年10月、歴史的建造物である赤レンガの建物を活かした「サッポロファクトリー」へと生まれ変わった。上空からの写真は1980年代と思われる第一工場(写真提供:サッポロビール株式会社)

ドリームプラン

ほどなく「JR苗穂駅北側地区再開発協議会」が中心となり、まちづくりの大構想が描かれた。骨格は、以下の通り。
❶JR苗穂工場を苫東に移転。❷創成川以東の鉄道を高架化。❸中核施設としてJR苗穂工場跡地にドーム球場を整備。❹サッポロビール園を含めたボールパークを形成。❺点在する産業遺産をネットワーク化。❻北3条通に路面電車を再生。❼苗穂から北海道庁に向けて再開発を展開。
当時札幌市と経済界が中心となって、ドーム球場の建設構想が推進されていた。このドリームプランは、その候補地のひとつとして、移転後のJR苗穂工場跡地を提案したもの。北3条通を軸に、苗穂からサッポロファクトリー、道庁方面へと東から新たな再開発を波及させていくシナリオは、都市百年の大計となる骨太の構想だった。
「JR苗穂駅北側地区再開発協議会」は、「フォーラム・苗穂再開発物語」を毎年開催して、地域の住民や企業、行政、専門家らを交え、ドーム球場を中心としたこのドリームプランについてオープンな議論を展開した。関係機関ではJR苗穂工場の苫東移転や鉄道高架などをめぐる技術的検討が進められ、民間からも意欲的な事業提案が出されるなど実現に向けた機運は盛り上がっていく。しかし構想が日の目を見ることはなかった。
背景となったのは、バブル経済崩壊による経済社会の停滞だった。民間投資は一気に冷え込んだ。そして1996年。札幌市は「2002FIFAワールドカップ」の札幌招致をめざして、開催年の2002年までに羊ヶ丘に札幌ドームを建設することを正式に決定する。これにより苗穂のドーム構想は消滅。低迷する経済下では、これに代わる中核施設の見通しも立たず、残念ながらドリームプランは幕を閉じることになった。

原点回帰

地域再生運動はエアポケットに入ったが、もう一度地に足を着けて、地域に根ざした発想を大切にしようという気運が、住民を中心に起こった。苗穂駅北側の活動に呼応して、1996年には「JR苗穂駅南側地区再開発協議会」が発足。鉄道で分断された南北の住民団体の連携が実現する。もとより鉄路の南北は、札幌市に合併する前は苗穂町というひとつの自治体であり、札幌市の区政施行(1972年)によって南の中央区、北の東区に分かれたにすぎない。南北の交流も減っていたが、再生運動を契機に、南北住民の交流を取り戻していく目標が共有された。このころからまちづくり運動は、「つなぐ」がテーマとなる。苗穂駅北口開設の要望が抱いていた願いだ。
21世紀を迎えた春(2001年5月)。北側と南側との協議会は、南北一体の「苗穂駅周辺まちづくり協議会」へ発展する。南北をつなぐ新しい苗穂駅の実現と、新駅を核にしたまちづくりを目標に、住民・企業・行政のパートナーシップによる活動がリスタートした。

「ヨンロク」 始動

同じころもう一つの大きな動きが始動した。北海道ガス(株)札幌工場(北4東6)の操業終了にともなう再開発構想だ。工場は1912(大正元)年、石炭ガス生産のために当時の御料地を借用して建てられたものだったが、天然ガスへの転換が進むことで役割を終えつつあった。北海道ガスは札幌市に対して、工場の敷地を新たなまちづくりのために活用したいという意向を表明し、2001年、将来の土地利用のあり方について、北海道ガスと札幌市の勉強会がスタートする。
サッポロファクトリーの北側に位置し、北4条東5丁目から7丁目に広がる2・7haの工場敷地の土地利用は、停滞感の強かったこのエリアにとって、大きなインパクトとなる。北海道ガスが、敷地単独ではなく周辺と連携したまちづくりを進めたいという方針を表明したことが、重要な契機となった。この年発足した小泉純一郎政権は、経済政策の柱として「都市再生」を掲げる。2002年には都市再生特別措置法が成立。札幌市でも都心部に加えてこのエリアを内閣府の都市再生緊急整備地域とする機運が高まり、同年10月、「北4東6周辺地区」が都市再生緊急整備地域に指定された。「ヨンロク」の始動である。
プロジェクトのテーマは、「環境共生型市街地の形成」。エネルギー企業の拠点だった土地の前史に根ざしながら、次世代型の地域エネルギーシステムの構築をめざし、環境と持続的に共生するまちづくりを進める方針が示された。

ガイドライン策定

ドリームプランの挫折から4年。「苗穂駅周辺まちづくり協議会」と札幌市は、共同で「JR苗穂駅周辺地区まちづくりガイドライン」を策定する。ここでは、懸案の、鉄道による南北分断への解決策として、苗穂駅の移転・橋上化と南北自由通路の整備が具体的に盛り込まれた。「南北をつなぐ新しい苗穂駅の実現とそれを核にしたまちづくり」が、住民・企業・行政の共有する目標となったことは、大きなエポックといえる。
また北海道ガス札幌工場の土地利用転換も明記され、苗穂駅周辺地区とヨンロク地区を新たな中核エリアとすることが示された。
それは一方で、「鉄道高架化による大規模な市街地再編と再開発」をめざす方針からの大きな転換をも意味していた。しかし住民の中には、鉄道高架をあきらめるべきではないという声も根強くあり、協議会を中心にして、数年かけて何度も議論が積み重ねられていく。ガイドラインの取りまとめ段階では、協議会が南北の苗穂連合町内会の全世帯にアンケートを実施して、7割以上から「苗穂駅の移転橋上化と南北自由通路の整備」に対する賛同を得た。
2002年のこのガイドライン策定は、その後のまちづくりの方向性を定める重要な画期となった。
開拓使通とも呼ばれ、道庁赤れんが庁舎をアイストップとする、道都の古い都市軸である北3条通を基線に、苗穂駅周辺からサッポロファクトリー周辺、さらに都心方面へと新たな再開発を波及させていく指針が、住民・企業・行政のあいだで明確に共有された。

苗穂駅周辺地区まちづくりガイドライン

苗穂駅周辺地区まちづくりガイドライン

マスタープラン確立 2003-2006

産業遺産と創成イースト

ガイドライン策定から間もない2003年。エリアの歴史にとってまた一つ大きな出来事が起きる。
1905(明治38)年にさかのぼる歴史をもち(当初は製麦所)、66年からビール醸造を行っていたサッポロビール第二工場が生産を終了し、姿を消すことになったのだ。日本のビール発祥地のひとつとして誇りと愛着を持ってきた住民にとって、地域のシンボルを失う落胆や失望感は強く、一部には、札幌で生産を止めるのなら「サッポロ」という名称を返してもらってはどうか、という声が出るほどだった。
サッポロビールは、ビール園とビール記念館を将来にわたって存続させ、第二工場跡地に開発する商業施設と合わせて、一体的なエリアとして運営する方針を発表。 策定したばかりのガイドラインに基づく、住民・企業・行政による協議がスタートした。「苗穂駅周辺まちづくり協議会」が主体となり、関係者が一堂に会して将来の苗穂駅の移転橋上化を想定しながら、第二工場跡地の土地利用のあり方や、ビール園・ビール記念館を活かした地域再生のあり方の議論が続いた。重ねられたワークショップを通して、住民提案がまとめられていく。2004年早春には、工場跡地の核となる商業施設について、(株)イトーヨーカ堂の参画が発表された。
サッポロビールとイトーヨーカ堂から、住民提案を織り込んだ第二工場跡地の開発計画が、住民ワークショップで説明された。プレゼンテーションの最後には参加していた100名以上の住民一同から期せずして拍手が起こり、創成川の東地区を象徴するビールの歴史を生かした新たな再生事業がスタートする。そして地域の新しい仲間として、2005年11月、大型ショッピングセンター「Ario(アリオ)札幌」が開業した。
サッポロビールは、隣接するサッポロビール園やサッポロビール博物館を含む街区を「サッポロガーデンパーク」と名づけた。

1980年代と思われるサッポロビール第二工場全景(写真提供:サッポロビール株式会社)と、工場跡地の開発計画によって2005年11月に開業した「Ario(アリオ)札幌」。

産業遺産を生かしたまちづくりを後押ししたのは、1999年から始まった北海道遺産構想だった。次世代に残したい北海道の宝物を道民から広く募り、第1回選定となった2001年には1万6000通を超える応募の中から25件が、第2回選定の2004年には約9000通の応募の中から27件が北海道遺産となる。「札幌苗穂地区の工場・記念館群」も、第2回の選定で北海道遺産となった。開拓期以来、さまざまなモノづくり産業を生み出してきたこのエリアの歴史的・文化的価値が広く発信され、ガイドラインで示されたまちづくりの指針が一層定着していくことになる。
またこのころから市民は、創成川から苗穂にいたる地域を「創成イースト」、あるいは「創成川イースト」と呼ぶようになる。
都心部に近接しながら変化がとぼしかったエリアの土地柄に魅力を見いだした人々が、個性的なショップや飲食店を開き、少しずつ新たな人の動きが起きていた。

北海道遺産「札幌苗穂地区の工場・記念館群」

「産業のまち」として栄えた創成川東のエリアに残る工場や産業遺産。その中から、サッポロビール博物館、福山醸造、北海道鉄道技術館、酪農と乳の歴史館、日本清酒が「札幌苗穂地区の工場・記念館群」として北海道遺産に選定されている。

南北・東西の分断を解消するマスタープラン

北海道ガス札幌工場跡地を中心とするヨンロク地区も、都市再生緊急整備地域の指定を受けて、将来の土地利用や地域のあり方について、住民・企業・行政による協議が進められた。「環境共生型市街地」という再生のテーマをどう具体化していくか。サッポロファクトリーを含めた一体的な整備をどう進めていくかが重要な課題となった。
また、創成イーストにおいては、鉄道による南北の分断に加えて、鉄道と交差する東8丁目線(北光線)のアンダーパスによって、東西が分断されていることも重い難題だった。ヨンロク地区と苗穂駅周辺地区の再開発が進んでも、それぞれが孤立する形では創成イースト全体への波及が弱い。この構造的な問題の解決も重要な課題となっていた。
札幌市は2002年に作成したガイドラインに基づき、2004年から苗穂駅周辺地区とヨンロク周辺地区の住民、地権者、企業などに幅広く参加を呼びかけ、2つのエリアを中心とする一体的マスタープランの策定に着手する。関係当事者との対話を重ねながら、それぞれの思いや意見や提案などを受けとめ、新しい骨格が具体的に描かれていった。それを取りまとめたのが2006年6月に策定した「苗穂駅周辺地区まちづくり計画」だ。
このマスタープランでは、南北・東西の分断を改善して、苗穂駅周辺地区とサッポロファクトリー及びヨンロク地区を結びつけるために、新しい都市計画道路(ネットワーク道路)の整備が明示された。この道路は、サッポロファクトリーからヨンロク地区を通り、鉄道高架下を北に抜けて苗穂方向に向かい、北光線のアンダーパスに橋をかけて渡る。そして新苗穂駅までのななめ通りを拡幅してつなげる。
ガイドラインで示された苗穂駅の移転・橋上化と南北自由通路、南北駅前広場の整備、苗穂駅周辺地区とヨンロク地区の再開発の方向性も具体的に示され、2つの拠点エリアを中心とする新しいまちづくりの骨格が広く共有されていった。
もとよりネットワーク道路や新苗穂駅、駅前広場などの整備は、多くの地権者に直接影響のある計画であり、マスタープランの検討過程ではていねいな協議が重ねられていった。 その後の2つのエリアの再開発事業をはじめ、ネットワーク道路・駅前広場・自由通路などの街路事業、苗穂駅の移転・橋上化などは、それぞれ事業主体は異なるが、すべてはこのマスタープランに基づいて進められている。各事業のスケジュールも異なり、全体として長期に及んでいるが、骨格となる部分はプランに沿って順次実現されていて、多くの関係者のコンセンサスを得て策定したマスタープランの意義が、あらためて認識される。

苗穂駅周辺地区まちづくり計画

苗穂駅周辺地区まちづくり計画

ヨンロク再開発の始動と苦難 2006-2016

リーマンショック

マスタープラン策定を受けて、ヨンロク地区は再開発に向けた具体的なアクションを起こすことになる。2006年に関係地権者を中心に「北4東6周辺地区再開発促進協議会」が発足。同会は札幌市と共同で再開発基本計画を策定した。基本計画を受けて2007年、「北4東6周辺地区まちづくり準備組合」が設立され、翌2008年には8・4haの区域を対象とする「北4東6周辺地区開発基本構想」を取りまとめ、土地区画整理事業と再開発事業の一体施行による方針が公表された。
この「開発基本構想」に基づいて、事業協力者を選定するための公募型プロポーザルが実施された。募集要項の説明会に参加した企業は43社。創成イーストの新たなまちづくりの拠点となる大規模な再開発事業に関する事業者の関心と意欲は強く、関係者のあいだでは、多彩な事業提案の中からパートナーを選定して、いよいよ具体的な事業化に入っていく時期も近いと期待が高まった。
しかし2008年の秋、事態は暗転する。世界を襲ったリーマンショックだ。事業提案の締切日に応募した企業は2社のみ。熱気にあふれた説明会からは想像もできない展開だった。応募した2社も事業全体ではなく部分的な提案であり、この時点では選定には至らなかった。アメリカ発の金融危機が、日本の株式市場やREIT市場をも巻き込み、不動産市況が急速に悪化した。1990年代初頭のバブル崩壊の残像もあり、民間投資は一気に冷え込んでいく。
ヨンロク地区の再開発は一旦立ち止まった。不動産市況は好転せず、民間投資も回復の気配が見えない。地権者の中からは、もう無理ではないか、という声も出始めた。8・4haもの大規模区域を一体で再開発する手法ではもはや前進できないことを現実的に受け止め、新たなシナリオを組み立て直すことが求められた。

雌伏と転換、再起動

2009年から2012年。プロジェクトは雌伏する。リーマンショック後の停滞に加えて2011年3月には、東日本大震災が列島に未曾有の被害をもたらした。先行きが見通せない中で「北4東6周辺地区まちづくり準備組合」は、地権者、札幌市、民間事業者など多くの関係者との対話を重ねながら、新たなシナリオを模索した。
この過程で、幾つかの大きな方向転換があった。まず、8・4haの区域を土地区画整理事業で一体整備するのではなく、段階的に再開発を進めること。そして、ヨンロク地区と苗穂地区をつなぐネットワーク道路を、札幌市の街路事業(都市計画道路事業)として整備すること。三つ目は、老朽化による建替が検討されていた札幌市中央体育館を移転すること。さらには、市街地再開発事業で一体的に整備する区域を鉄道南側に絞り込み、北側はネットワーク道路の整備に合わせて街区単位での開発を進めること。
方向転換は容易ではない。さまざまな可能性を探りながら多くの協議を重ね、行きつ戻りつしながら一つひとつに時間が費やされる。地域再生を実現しようという、関係者相互の強い思いが原動力だった。最も苦しい時期だったが、結果としてこの3年間の対話とその過程で得られたコンセンサスが、その後の再開発事業の原動力となる。
2012年4月、札幌市はJR苗穂駅周辺地区の都市計画決定を行った。これにより、ヨンロク地区と苗穂駅周辺地区をつなぐネットワーク道路(苗穂駅連絡通)が街路事業で整備されることが正式に決定。それに先立つ3月、札幌市中央体育館をヨンロク地区に移転する方針が決まり、7月には中央体育館建設基本構想が策定された。
ネットワーク道路と中央体育館の新築移転。2つの大きな骨格が定まったことで、ヨンロクの再開発は再起動する。2013年、鉄道南側は市街地再開発事業で一体的に整備し、北側はネットワーク道路の整備に合わせて段階的に建替更新を行うことで合意がなされた。2013年12月には新たな枠組みに基づく民間事業提案の公募を開始して、2014年4月、事業協力者が選定された。
地権者の合意が形成され、民間事業パートナーも定まったところで、2014年5月、まちづくり準備組合を改組。「北4東6周辺地区再開発準備組合」が設立された。
マスタープラン策定から8年。リーマンショックと東日本大震災という激浪を乗り越え、関係者はようやく本格的な事業化プロセスの入口に辿り着いた。
他方で、一時は空洞化していた中央区の人口は、都心回帰の流れが顕著になっていた。

札幌市各区の人口推移グラフ

札幌市各区の人口推移グラフ

再開発組合設立と着工 2016-2021

幾つもの壁を乗り越えて着工へ

再開発準備組合の設立により体制は整ったものの、課題が全て解決したわけではない。ここからさらに幾つもの壁が待ち受けていた。リーマンショック後の経済停滞が続き、不動産市況も低調。再開発事業の収支がなかなか成り立たない環境が続いた。解決するには保留床価格の見直しと事業コストの低減、補助金の有効活用を図ることなどが必要になるが、協議は容易ではなく、タフな交渉が続く。
またネットワーク道路の整備や市街地再開発事業にかかわる地権者の移転先を斡旋・調整することも大きな課題だった。各々の地権者は、長年まちづくりの活動に協力して都市計画にも合意しているが、具体的な移転先と移転補償が定まらないと次の一歩が踏み出せない。法人・個人ともに、地権者の多くがヨンロク地区の近隣への移転を希望していたこともあり、地区周辺での移転先の確保に向けた交渉と調整が必要になる。
北東街区については、医療福祉施設と健康増進施設の整備を予定して、そのホルダーとテナントも決定していた。しかし既存施設の移転時期との兼ね合いで、整備スケジュールが延びていく。低迷する経済情勢によって事業内容や条件などが固まらず、施設計画や建設コストが何度も見直され、交渉と協議が繰り返された。完成が5年以上先となるために経済環境が見通せず、リスクを見越した事業計画の調整が長引くことになった。
準備組合設立から約1年後の2015年3月、「北4東6周辺地区第一種市街地再開発事業」及び「地区計画」が都市計画決定され、事業着手に向けた階段をようやく一段上ったが、なお幾つもの壁に時間を要し、そこから事業認可(組合設立認可)を受けるまでにはさらに1年を要した。
2016年3月。「北4東6周辺地区市街地再開発組合」の設立と事業計画がようやく認可された。マスタープラン策定から10年を経て、事業に着手。ここから組合の役員や組合員、特定業務代行者、事務局体制など、事業推進のためのフォーメーションも固まり、プロジェクトは一気に走り始める。準備組合の段階で多岐にわたる準備作業を進め、関係者との合意形成も熟していたので、蓄積したエネルギーが解放されるように、実施設計、解体工事と土地整備、権利変換と補償、法定手続きなどが同時進行で勢いよく進んでいく。
この過程で、ヨンロク地区の再開発事業は、2つの工区に分けて進めることになった。北東街区の既存建物の移転時期が2019年3月以降となり、2017年3月に予定する北西街区と南街区の着工時期と2年以上の時間差が生じて、一体の事業計画として固めることが困難になったためだ。第二工区(北東街区)の準備も同時並行で進めながら、まずは第一工区(北西街区・南街区)の着工に向けた準備が加速していく。
2017年3月。第一工区の権利変換計画の認可を受け、北西街区と南街区の工事がスタートする。組合設立からちょうど1年が過ぎていた。3月25日に行われた起工式と着工祝賀会には大勢の関係者が参加し、ついに着工の日を迎えられた安堵と喜びを分かち合った。

第一工区竣工

第一工区の工事は順調に進んだ。2019年4月。まず北西街区のエネルギーセンターと札幌市中央体育館が竣工し、それぞれ引渡しを行った。ヨンロク地区のコンセプトである「環境共生型市街地」の中核となるエネルギーセンターは、天然ガスコージェネレーションと再生可能エネルギー(太陽熱・地中熱)を活用して街区に電気と熱を供給する施設で、「札幌市エネルギービジョン」のリーディングプロジェクトにも位置づけられている。センターは4月19日に開所式が行われ、エネルギーを地域で自立的に管理するスマートエネルギーネットワークの拠点が関係者に公開された。札幌市中央体育館を皮切りに、各施設の開業に合わせて順次エネルギーが供給されていく。
札幌市中央体育館は、ネーミングライツにより「北ガスアリーナ札幌46」となり、4月27日にオープニングセレモニーが催された。北海道ガス創業の地の史実がこうして記され、前館の歴史と機能を引き継いだ、札幌市の新しい健康・スポーツ拠点が誕生した。第二工区も含めて全体が完成すれば、アリーナに隣接する芝生広場や、地区の外周の歩行者通路(ウォーキングやジョギング利用)とつながり、北東街区に開設される民間のスポーツクラブとあわせて、健康な暮らしを支えるインフラが整うことになる。
北ガスアリーナ札幌46の開業に合わせて、南街区の分譲共同住宅に附帯する部分も含めて、サッポロファクトリーと北ガスアリーナとの間をつなぐ空中歩廊の供用も開始された。これにより、サッポロファクトリーの建物内・建物間通路とヨンロクの空中歩廊が連結して、北1条から北4条までの空中歩廊ネットワークが生まれた。幅広い世代が冬でも安全に歩いて暮らせるインフラとして、創成イーストのまちづくりを象徴するものといえるだろう。将来これが地下鉄バスセンター前駅まで延ばすことができれば、大通一帯の地下通路とも接続して、札幌中心部と創成イーストをつなぐ長大な歩行者ネットワークが実現されることになる。
エネルギーセンター、北ガスアリーナ札幌46、空中歩廊の供用開始から5か月後の9月末、南街区の分譲共同住宅が満を持して竣工した。サッポロファクトリーと北ガスアリーナ札幌46の間に位置し、空中歩廊で相互に直結する分譲共同住宅は、販売開始当初から大きな注目を集め、竣工時には完売の状態だった。住宅単体の開発ではなく、地域のインフラと公共空間、そして生活環境の総体を整え直していく市街地再開発事業の意義を改めて実感する成果となった。

コロナ禍での竣工

第二工区は組合設立当初から竣工を5年後に予定していたこともあり、事業環境の変化や事業者の事情などにより、都市計画決定時のコンセプト(医療福祉・健康増進)を維持しながらも、計画の変更や事業者の変更を余儀なくされた。都市計画の決定と事業計画の認可を受けて行う法定再開発事業の場合、組合設立時に策定した事業計画を変更するのは容易ではなく、関係者の合意形成はもとより、変更に伴う行政協議や法定手続きにも時間とエネルギーが必要となる。なによりも、定められた枠組みの中で事業を確実に進める計画と事業者を再構築しなければならない。
第二工区では、組合設立から3年の間に、大きな変動が二度生じた。変動はある日突然起こるものではなく、予兆は感じとっていたので、リスクに備えたシナリオを想定して、実際に生じた際に迅速に対処することができたが、それでも当初予定していた工事着手時期を半年遅らすことを余儀なくされた。おりしも消費税が8%から10%に改定された時期で、計画全体に大きな影響を及ぼすことになった。
それでも関係者の支援と協力、迅速な合意形成によって、半年間のリセット期間を経て計画と事業者の変更が行われ、それに伴う行政協議や法定手続きなどを整え、2019年8月に第二工区が着工した。変動のダメージは大きかったが、リカバリーを迅速に進め、工期や事業費などへの影響を最小限にとどめることができた。このとき関係者のあいだにようやく、ヨンロクの複雑なプロジェクトの着地のタイミングが見えた。
2019年12月。中国湖北省武漢市で発生したとされる新型コロナウィルス感染症(COVID―19)は、瞬く間に世界を覆い、日本でも翌年2月ころから感染が急拡大。3月には東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決定した。4月には全都道府県に対して緊急事態宣言が発出されるなど、感染状況は深刻さを増していく。その後、変異株による感染拡大が波状に繰り返され、発生から2年以上を経過した現在(2022年4月)も、終息が見通せない状況が続いている。
2019年8月に着工した第二工区の工事は、まさにコロナ渦の真っ只中で進めることになった。現場では万全の感染防止対策をとり、人の密集を避ける作業工程や時間を調整するなど、緊張を強いられる日々が続いた。
結果的に、関係者の日々の努力により感染者は発生せず、工事も当初の予定通りに進捗して、2021年12月、竣工・引渡しを終えることができた。過酷なコロナ渦での文字通りの「無事完成」だった。予定していた竣工行事や「まちびらき」は延期せざるをえず、関係者が一堂に会して完成を祝うことができなかったことは残念だが、万感の安堵をもって迎えた竣工だった。

ヨンロク再開発エリア

ヨンロク再開発エリア